読書ジャンキー

 高校一年生のころ、僕は読書ジャンキーだった。こういうと真面目でおとなしい文学青年だと思うかもしれない。しかし、その真逆だったのだ。怠惰で孤独な人間がアルコールや薬物にすぐ頼ってしまい抜け出せなくなってしまうが、僕の場合はそれが活字だったのだ。

 小学生のころはそこまで本が好きではなかった。むしろ”軽薄な”児童書(青い鳥文庫)を読んで、中学受験での国語力を心配する母親からもっとまともな本を読めと言われたものだった(親が進めてきた本は『スコーレ No.4』だった)。ちなみにこのころ初めて読んだライトノベルは『傷物語』。

中学1~2年のころは有川浩とか東野圭吾だとかそういうエンタメ小説を中心に読んでいた(ただ、中2のころには『カラマーゾフの兄弟』を履修していたと思う)。
それが中学3年生のころ『夏への扉』もしくはフィリップ・K・ディックの短編集にあたったことや、『虐殺器官』や『ハーモニー』を読んでSFに興味をもったことで、読書ジャンキーへの道筋が開けてしまった。間が悪いことに、当時『バーナード嬢曰く。』という作品を知ってしまったことがいけなかった。この漫画は読書家ぶりたい女子高生とSFオタクの女子高生の読書生活を描いた作品なのだが、作者による読書案内という性格も強く、海外文学やSF作品の名前がズラズラと並んでいるのだ。こうして僕はハヤカワ文庫の青背(海外SF小説)やepi(カズオ・イシグロ作品などのメインストリーム系の文学が多い)をひたすら読み散らかす生活に移っていった。特にディックやイーガンといった小説家は大ハマリして、文庫化されているものはほとんど読んだし、それぞれ10冊くらいは持っている。しかしDigり方がよくなかった。とりあえずSFオタなら有名どころ(ハインラインとかクラークとかレムとか)を抑えておくべきだなと思い、熱烈なファンでもないのにそこらの有名どころをそれぞれ5冊くらい読んでいた。チャイナ・ミエヴィルという小説家がいるのだが、『都市と都市』というタイトルがかっこいいというだけで、彼の本を数冊惰性で読むほどだった。ちなみにメインストリーム文学ではコーマック・マッカーシー(国境三部作やザ・ロードの著者)やミシェル・ウエルベックなどを読んでいた。古典的な作品はあまり読まず(シェイクスピアも読んでない)、ロシア文学で言えば、ドストエフスキートルストイの長編をそれぞれ一つ読んだくらいだった。新潮文庫で出てるようなドイツ文学やフランス文学はほとんど読んでない。

これらの本を読むにあたって面白いか面白くないかを考えるなんてことはしていなかった。ただひたすら「読書が好きなら押さえて置かなければ」という義務感だけで読んでいた。昼休みも帰りの電車も帰ってからもひたすら本を読んでいた。こんな読み方が可能だったのは完全に活字を摂取し続けるというライフスタイルから抜け出せなくなっていたからだ。暇な主婦がひたすらテレビに釘付けということがあるが、それが僕の場合、小説だったのだ。ヘビースモーカーが常にタバコを吸っているように、僕もただひたすら本を読んでいた。感想を脳内でまとめるというプロセスすら経てないので、読んだ作家として即座に挙げることのできない作家も多い。常に虚構に潜り込んでいたので自意識や客我も虚ろだった気がする。

こんな生活をしていて、社会生活に影響がでないわけがないのだが、子供の頃から自分が変人・問題児という意識もあったし、男子校だったので人の目を気にしなくても生きていけた(その分失ったものもあったが)。

こうした生活は高1のころ全盛期を迎え、高2になっても続いていたが、流石に高3になると受験を考えたので自然に読書ジャンキーから抜け出せた。

大学に入ると、娯楽が多様化したのと、受験で読書スタイルが錆びついたことで、こんな没頭した読書はできなくなったし、流石に他人から見た自分を意識するようになった。最近はウラジーミル・ナボコフを中心に読書をしているが、作家単位で掘り下げていく読書法からは抜け出せなかったようだ。

もうあんな読書の仕方はできないが、あれだけ虚構の世界に潜り込めたことには自分でも驚くし、一種の青春なのかもしれない。

 

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