数百人の〇〇愛好家

某先生リスペクト

『…しかし結局のところ、彼は一度も疑ったことがなかった_世界は_その実体はペテルブルクやモスクワ、キエフを去ってきた数百人の文学愛好家だが_ただちに彼の才能を認めるだろう、ということを』 ウラジーミル・ナボコフ『賜物』より

 

かつて幼い僕は自分が1億2000万人の等質な人間からなる日本という国民国家の一員であるというナイーブな幻想を持っていた。
現実には普遍的な日本人という概念は不可能で、経済的階級、性別、年齢、民族、学歴にこの国の人間は別れ、多種多様な文化があり、人間関係がある。

ここでハビトゥスがどうだの、文化資本だのという社会学の授業をする気は毛頭ない。ただこういうことって成長しないと気づかないんだなーって思う。このことに気づいて達観しないと、どんなに自分が変人という自覚があって、キモいオタクという認識があっても、無意識的に社会不適合者たる自分を責め、低い自己肯定感からコミュ障は加速するという悪循環に陥ってしまう。

上の引用は『賜物』の主人公、フョードル・コンスタンチノヴィチ・ゴドゥノフ=チェルディンツェフ伯爵(長ぇ)がデビューしようとしている亡命ロシア人文学の世界の狭さを、その亡命ロシア語作家である(であった)作者ナボコフが間接的に自虐的に述べたものだ。

だけどこれを「亡命ロシア人は大変だね〜市場が狭くて」で片付けてしまっていいのだろうか。結局の所、人間が一度に関係を結べる数は150人が限界とも言われている。結局我々も何らかの「数百人の〇〇愛好家」の枠内で生きていて、それ以外の世界は存在しない。

『名声?』コンチェーエフが遮った。『笑わせないでください。誰が私の詩を知っているっていうんです。千人か、千五百人か、せいぜい、どんなに多く見ても二千人の亡命知識人だけですよ…(中略)…三百万の難民のうちの、たったの二千人!』同上

 

伝統的にロシアでは文学の地位が異常に高いって言うのがあるのかもしれないが、普通の国だと人口比的にそんなものだという気がする。この『賜物』だって読んだ日本人は数千人もいないだろう。TLで人気のあのアニメだって、視聴した人は、千万人以上いる日本の20代の若者のうち、数万人くらいだ。世間を意識すると発狂してしまう。

深夜3時に中2ポエムを書いてるけど、言いたいことは無人島に行っても発狂しないような孤独耐性が欲しいねということです。

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